2013年8月13日火曜日

もう少し深く考えてみました。

映画「おくりびと」は日本で数々の賞を総なめし、最終的に第81回アカデミー賞外国語映画賞も受賞した。「おくりびと」はひょんなことから納棺師になってしまった主人公が、真に「納棺師」という職業を理解し死に旅立つ人々を送り出すことの意味を見出していく話である。



わたしはこの映画を見てとても深い感動を覚えた。が、見ている間に全然映画の内容と関係ないことを考えてしまった。それは日本の女優のセリフの言い回しをアメリカ人はどう感じるのだろうかということ。アメリカのアカデミー賞を取ったのでそんな方向に思考が漂っていったのであろう。アメリカの映画と日本の映画とのセリフの言い方は全然違う。アメリカと日本と言う比較だけでなく、それぞれの国によっても同様だ。俳優は当然その国の文化を背負ってセリフを発しているのであるから同じひとつのセリフを発する場合も表現方法はその国によってまちまちだと想像される。



以前、教えてもらっていた英会話の先生がこんなことを言っていた。アメリカにいる時は日本の俳優は演技が下手だと思っていたが、日本に来て日本人はこんな風な話し方をするのだとわかり彼らは日本のノーマルな話し方を演技していたのだとわかった、と。同じような経験がわたしにもある。香港映画を見ると、彼らはとても大袈裟で機関銃のような速さで猛烈にセリフを話す。これは、映画の中の演技だからこんな風に大袈裟に強調されているとばかり思っていたが、実際上海に行ってみてしばらく暮らすと、ああそうなんだと、これが中国人だったのだと実感できた。



例えば西洋人は一人ひとりが自分の意見を主張し、自分の言い分に多大な自信を持っている。見方に依れば「攻撃的」とでも言ったような感じである。一方、日本の女性は自分の意見を言っている時でも一歩下がって物を言うような「どう思われますか」的雰囲気を漂わせている。つまり彼女たちも同様に自分の意見に自信を持ってはいるが、まだ相手の言い分を聞くと言う余地を残しているのである。それは西洋の人々にとっては自信無さの表れ、良くいえば謙虚さの表れと映るようである。



アメリカ映画の日本での吹き替えをみてもそんな表現の違いが現れている。アメリカ人が日本語で話す訳だが、その日本語はとてもふつうの日本語の言い回しとは言えない。アメリカ的言い回しの日本語、「吹き替え言語」というジャンルが生まれている。コメディアンのこの吹き替え言語のマネによるひとつのギャグのジャンルの成立がこの言語の不自然さを証明している。



このような状況がありつつも何故我々はそれを乗り越えお互いに理解しあえるのか。日本人がアメリカ映画を理解できる理由は、日本人がアメリカ映画を見続けて来たという事実にあると思う。アメリカは世界に「アメリカ」を発信し続けている。我々はその映画をコンテクストから理解しやすい。日本もようやくその域に達してきたのかなと、思う。つまり最近の世界における日本ブームは日本が世界に発信してきたことが実り、今、日本のコンテクストを理解しうる素地が世界に出来つつあるのかという思いである。一方、どこまで我々はお互いに理解しているのかという疑問も捨てがたく残っているのではあるが。







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